2014年2月11日火曜日

北から登る上郡の黒石

上郡の黒石は、岩木川を遡って行くことができます。隣の船岩には大きな養鶏場が幾つも作られており、市原経由で行くこともできます。しかし大規模な開発が行われており、登山には向いていないようです。そこで、黒石に北から登ることを思いつきました。

千種川沿いの円光寺から西へ秋里川を遡りました。上秋里の先で道路北側のの法面を整備しており、その飯場がある所が地形図で破線道が南の谷に伸びている場所でした。進入禁止の橋を渡ると尾根の先端に作業道があり、ここから尾根に登りました。登ってしまえば歩きやすい尾根です。しばらく歩くと電線が通っており、一緒に登って行くとCATVのアンテナがありました。この付近が290m地点です。その先、330m+ピーク付近は展望があり、その先から作業道が現れました。後で北の谷を通ってわかったのですが、この付近の北斜面は大規模な伐採が行われています。345mピークを過ぎ、西播東岡山線37鉄塔を過ぎましたが、鉄塔の所で南の尾根を探すのに少し苦労しました。関電の巡視路は谷に降りていきます。370m+の小ピークを過ぎると谷から道が道が来ていたので、しばらく道を歩いて標高400m付近に着きました。ここからは北に大展望が広がります。

ここからは道ではなく尾根を歩きましたが、特に障害物はありません。佐用町と上郡町の境界の尾根に出てさらにゆるやかに登って行くと、505mピーク(これが抜位山?)に出ました。養鶏場の臭いが漂ってきます。いちおうここが目的地だったのですが、赤白の鉄塔が見えたので南に降りて行くと、NTTドコモの船石通信塔でした。非常に高く、しかも先細りではなく平行な四本柱で立てられています。携帯のアンテナは付いていますが、パラボラアンテナは一切無く、もったいない感じです。通信塔の北側からは柵越しに海が見えました。ついでなので黒石まで道を降りて行き、佐岐神社にお参りし、そのまま神社の裏手を登って505mピークに戻りました。

ここからは下山ですが、まず登ってきた町界の尾根を戻り、町界から外れるあたりで東寄りの尾根を降りました。この尾根を下って行くと、東の谷の方に行ってしまいました。北の尾根に登るには急斜面を登らなければなりませんが、幸いに斜面をジグザグに登る道があって、尾根に出られました。この先もずっと道が続きましたが、道は東のほうに行ってしまいそうだったので尾根に上がって北へ歩きました。すると墓地がありました。こんな山奥に墓地があるとは予想していなかったので、とてもびっくりしました。明治から大正時代の墓が多く、古くても慶応年間でした。ほとんどの墓石は倒れていましたが、立派に立っていたのは特大の「大釜家先祖代々之墓」(写真)と、軍人仕様の「大釜弥三郎之墓」でした。この墓地は東向き斜面に作られており、道を歩いていると気が付かないかもしれません。

墓地があるということは下山道があるはずと思って探すと、どうやらここまで歩いてきた道が西に谷を降りて行くようなので、それで下山することにしました(他にも東に向かう道もあります)。しかし荒れた道で、崩落しているのはしかたないにしても、途中で竹が折り重なって倒れており、通れなくなりました。地形図ではこの付近には竹林のマークがあり、不思議に思っていたのですが、陶器なども落ちており、どうやらかつて人家があったようです。帰ってから調べると、この付近にはその名もズバリ大釜という集落があったそうです([1])。国土地理院の1975年のカラー写真には、家屋が数件写っています。Google Map(ゼンリンの地図)でも、この付近にはポツリと「大釜」と書かれています。しかし今となっては道は歩けず、結局谷に降りました。この付近の谷は広いので歩くには問題ありませんが、沼地化しているところがあって靴が泥だらけになりました。再び道に戻って降りて行くと、関電の赤い「火の用心」がありました。登山時に通った37鉄塔の一つ前の36鉄塔がこの尾根の上にあります。この先は関電のお陰でだいぶ歩きやすくなりました。大規模な伐採を眺めつつ、水の少ない溜池を通って、最初に通った橋に出てきました。

上秋里から大釜を見に行きたければ、私が最後に降りた道を歩いて関電の鉄塔に登って、尾根から集落の跡を探すのが正解と思います。この付近には抜位という集落もあったそうで、廃村マニアの方にはお薦めです。先に廃村のことを知っていれば、もっと気をつけて歩いたのですが、いずれにしても残雪がかなりあったので、再挑戦したいと思います。千種川から谷を登っても来れそうですが、千種川をどうやって渡るかが大問題でしょう。

展望 ★☆☆
藪山度 ★★☆
地形図は「上月」です。

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